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ホモ・ルーデンス(遊ぶ人) ヨハン・ホイシンガ

nakata513

遊びは文化よりも古い。「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にある。

 これがホイジンガの大前提である。

ホイジンガが遊びに注目したのは、遊びが本来の生の形式ではないということにある。ありあまる生命力の過剰をどこかに放出するもの、それが遊びであった。

 では、どこからどこまでが遊びなのか。ゲームを開始したときからか、仕事が終わったときからか、社会の秩序から解放されたときからか、自分のムダに気づいたときからか。遊びがどこから始まるかと問うのは野暮になる。

遊びは最初の最初から始まっているからだ。あえていうのなら遊びは、何かのイメージを心の中で操ることに始まっているというべきなのだ。だから「遊びは本気なものではない」とは言ってはならない。そう言ったとたんに、遊びを相手にすることはできなくなっていく。遊びを生の形式から区別しようとしすぎるのも、遊びを逃がすことになる。

 こうして遊びとは、遊び以外のあらゆる思考形式からも自由に遊びをまっとうできるような、そういう何かの行動なのである。しかもその行動は、つねに一時的な自立領域をつくれるから、何らかの時間的制約や空間的制約を受ければ受けるほど遊びらしさを発揮するものだ。


人生とは究極的には『遊びを楽しむこと』です。人間の本質とは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人) です。チャラ男になれって言っているんではないです

「遊び」こそやっていてワクワクすることで自分の波動を高め、まわりもしあわせにすることなんです。

「成功したから遊べるのではなく、遊んだから成功する」という至言もあります。

遊び心なしで、独創性も生まれません。”遊び”がないと、ギスギスするでしょう。

どうせなら、あなたの居場所で毎日やること(仕事でも家事でもいい)で遊んで楽しみましょう。それが人生の創造です。

地球は「光の遊星」です。

とにかくいい学校に入って、いい会社に入って、大きなお家を建てて、お金持ちになって、最後に好きなことをして遊ぶために、今は我慢と忍耐と自縄自縛して学校でも会社でも必死で競争する。変ですよね?

それにしても「アリとキリギリス」の寓話で、今を楽しむことへの罪悪感や恐怖感を刷り込まれています。

この寓話って、イルミさんが大衆を奴隷にする目的で創作した洗脳かもです。

心の底から楽しんで生きていれば、自然と周りの人も幸せにできます。

愛とはそういうものです。心から楽しむことが「ライトワーカー」なのです。

遊びならなんでもオーケーなの??そこは愛があるかどうかです。まわりの人を悲しましたり、将来の世代にツケをまわす、「火遊び」はやめましょう。何ことをいっているか分かりますか?

人生には遊びが大切だ──。気分として心にあっても、言葉にすると空々しい。働く大人はそれどころではない。それでも、ひとが「遊び」の大切さを思うのは大人になって子どもが遊ぶ姿に接し、自分にないその真剣さに触れたときだ。


人間社会も「遊び」をすっかり無くしたとき、ようやくその大切さに気づくのだろうか。だとすれば、20世紀を代表する歴史学者ヨハン・ホイジンガは人類の気づきを少しだけ先取りしていた。

『ホモ・ルーデンス』が発表されたのは今から80年前の1938年である。その後、「遊び」をめぐる如何なる言説も本書を素通りすることはできないほどの、まさに古典中の古典だ(本書を発展的に継承したのがロジェ・カイヨワ著『遊びと人間』である)。


ホイジンガ曰く、人間とは「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」のことである。遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。つまり、遊びこそが人間活動の本質である。


冒頭に掲げるこの命題を実証するべく、古今東西の文化の森に分け入り、その起源に遊びの要素を見出していくのだが、その前段階として第一章ではまず「遊びの形式的特徴」を次のようにまとめている。


遊びは自由な行為であり、「ほんとのことではない」としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているものでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。

つまり、

① 自由な行為である

② 仮構の世界である

③ 場所的時間的限定性をもつ

④ 秩序を創造する

⑤ 秘密をもつ

これが遊びの5つの形式的特徴。さらに機能的特徴として「戦い(闘技)」と「演技」を挙げる。

「遊び」についてこんな風に考えてみたことはなかったが、こうして定義されると「遊び」の概念がにわかに輪郭をあらわしはじめる。


たしかにひとは「物質的利益のため」でもなく、命令されるのでもなく、遊ぶことそれ自体が面白いから遊ぶのだから「①自由な行為」に違いない。また、傍目には夢中に見えても、遊ぶ本人には「②仮構の世界」にいる意識があるというのも納得。だから彼らは日常生活からの「水差し」に対して敏感なのか。この定義を読みながら、お面を被ってヒーローになりきる子どもにカメラを向けてシラケさせた苦い記憶も蘇った。そのほかの「形式的特徴」も然り。「機能的特徴」に関して言えば、「ごっこ遊び」などは、まさに「戦い」「演技」の両機能をあわせもつ遊びに違いない。


各人の子ども時代の記憶を振りかえりながら、実体験に即して「遊びの定義」を再確認できるのも本書の魅力のひとつだ。

これらの定義をもとに、ホイジンガは第二章以降で古今東西の文化の森にぐんぐん分け入っていく。インドネシアや北米など原始的古代社会の話をしたかと思えば、ローマ時代から中世、ルネサンスを経て産業革命以降の近・現代社会の話にまで及ぶ。誰もが十分に知っているはずの「遊び」を定義することで時空を超えたあらゆる文化とを結び付け、歴史学や民族学、言語学などを統合した独自の見地からつぎつぎに実証していくのだ。

祭礼行事はもとより、音楽、文学、哲学、演劇、舞踏、スポーツなどの「文化」と聞いて誰もが思い浮かべるもののほか、商業、工業、近代科学、裁判、議会政治、戦争なども、その範疇にある。文化というより人間の営為すべてと言った方がいいくらいである。


読みはじめると、めくるめく“連続講義”に圧倒されっ放しだ。とくに「遊びと知識」をめぐる第六章がすごかった。人間が学問というものを獲得していく過程を、ホイジンガ自身が楽しみながら、まさに「遊び」の真剣さで語る息づかいが伝わってくる。

昨今の大学では、「教養学部」は消え、「一般教養」科目も影を潜めていると聞くが、もし学生時代に戻れるのなら、入学1年目にはこんな授業を生で受けてみたかった! そう思わせる"理想の講義"だ。その意味でも、ホイジンガが「遊び」をモチーフにしながら企てた壮大な文明論を存分に噛みしめて欲しい。


物語なんて、誰かが一行を足すだけで、簡単に転換するものなんですよね。だけど、それはもしかしたら、僕たちの人生も同じことなのかもしれません


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