top of page
検索

『98』キッシンジャーが作り上げたと米中の深いきずな

  • nakata513
  • 2022年4月5日
  • 読了時間: 4分

1968年、ソ連のブレジネフ書記長が「プラハの春」を潰します。この年は、日本のGDPが世界2位になった年です。1945年の敗戦から数えて約四半世紀で日本は復興したわけです。吉田茂が描いたグランドデザインが正しかったということですね。ここで日本人は自信を取り戻したと思います。日本全土が灰じんに帰したけれども、経済力で世界2位まで戻した。これが日本人の戦後の誇りの源になっていったのだと思います。


 1969年、中ソが軍事衝突を起こします。林彪が毛沢東の後継者になって文化大革命は一旦、成功します。西ドイツではブラント政権が「東方外交」を展開し、ナチスの蛮行を謝罪することによって、東側諸国とソフトランディングを始めることになります。アポロ宇宙船が月面に着陸して、またアメリカはソ連を引き離します。


 1971年、沖縄返還協定が結ばれます。実はこの年に、アメリカのキッシンジャー大統領補佐官がひそかに訪中していました。


 1971年9月には中国で「林彪事件」が起こります。これは今でも謎のベールに包まれているのですが、ナンバー2であった林彪が、なかなか毛沢東が自分に権力を委譲してくれないので、毛沢東を暗殺しようと図って失敗して、飛行機でソ連に逃げたという事件です。


 これは中国にとっては一大事です。ナンバー2が国家の機密書類を持って、しかも軍の最高責任者が敵国であるソ連に逃げるわけです。このことを知った周恩来は、深夜に毛沢東の自宅に駆け付けます。「林彪が逃げました。すぐに戦闘機を発進させて撃ち落としましょうか」と。このときの毛沢東の対応が後に有名になります。それは、「雨は降る。女は嫁に行く。行かせてやれ」というものでした。毛沢東はやはり詩人で不思議な人ですね。


 モスクワに亡命した林彪が自ら記者会見をした場合、あるいはソ連が記者会見をした場合、どのように対応するかを中国の高官たちが徹夜でシミュレーションを行っていました。彼らにとって都合がよかったことに、この飛行機はモンゴルに墜落し、全員が死んでしまいます。徹夜で作業をしていた中国の高官たちにとっては最善の結果になりました。勝手に墜落してくれたわけですから。思わず冗談が飛び出すようになったという話が残されています。


 実はキッシンジャーが訪中したときに、中国の国連加盟について話をつけていたらしいのですが、日本には知らされませんでした。日本は、中国の国連加盟に最後まで反対します。この極秘の訪中は後に本になっています。


 キッシンジャーは膨大なデータを持って中国に行き、人工衛星でチェックした中ソの国境に展開しているソ連軍の情報を全て教えます。「これはアメリカの中国に対する好意の表れだよ。機密中の機密だから、君らだけの話にしておいて誰にも言わないでね」というのです。アメリカと中国は当時は国交もないのに。


 また、キッシンジャーは「我が同盟国の日本は、絶対機密とした話でもほぼ1週間しか持たない」と、日本の情報管理の甘さについて軽口をたたいています。中国は「日本が1週間であっても、我々は歴史が違うので、機密は永遠に守ります」と答えるわけです。きっと、「そうだよね、だから我々は気が合うんだよね」といった話をしていたのでしょう。


 ニクソン大統領は1972年2月に訪中します。ニクソンとキッシンジャーの訪中録はアメリカの公文書管理法のルールに従って30年後に機密が解除されました。その後、特に機密の黒塗りの部分についても全てオープンになりました。機密とされた部分は、ほとんど日本に対するものでした。


 ニクソンとキッシンジャーが毛沢東や周恩来と話をした内容を読むと、アメリカと中国のきずなは本当に深いと考えさせられます。それまで、お互いに罵倒し合っていたのに、驚きですよね。


 アメリカ側が「日米安全保障条約は中国を想定したものではなく、日本の再軍備を抑えるためのものだ」と説明すると、中国側が「よく分かっています。日本が軍事大国になるのは我々両国にとって悪夢以外のなにものでもありませんよね」と返すといったやり取りが残っています。米中は今、かなり激しくけんかをしていますが、両国の底層にあるきずなの深さを、我々はもっと勉強しないといけないと思います。


 
 
 

Comments


  • Facebook
  • Twitter
  • LinkedIn

©2021 by 株式会社化理府-カリフ-Caliph。

bottom of page